こんばんは。今夜は「夢」について。睡眠時の夢です。
眠った瞬間にこの世界は消えます。道路も人も環境も何もかも瞬時に消えてしまい、翌朝目覚めるまでこの世界を認識することはありません。

ですが、翌朝起きるまでに意識は継続しているので、「わたし」と言うのは目で見えるものではなく、耳で聞こえるものではなく、この世界の知識でもなく、肉体でもなく、今もっている思い込みでもなく、それ以外の何かだとわかります。

この世界には属していない、この世界を包み込んでいる意識という表現になってきます。
白いキャンバスの上で、建物があり、人がいて、あらゆる物語が展開されているのに、白いキャンバスは絵ではない。絵ではなく、キャンバス。映像ではなく、スクリーン。

スピリチュアルではよくある言い方ですが、意識してみないとこの盲点ってなかなか気づきません。科学的には何を馬鹿な…という話でしょう。眠っている間は世界からは眠っている人間が観測されるだけで、眠っているから世界が消失したのではなく、消失したように主観的に見えただけだと。

ですが、100%「主観」の話として考えてみると、示唆に富みます。寝ている間も意識は継続しているのは間違いないんです。翌朝起きて、わたしは別人になったとは誰も思わないんですから。

死亡時もこれとまったく同様に意識が継続する可能性はあるんです。意識が肉体に依存しているという因果関係が逆ならば、意識が土台で、現れが夢に過ぎないと。M-3形而上学の主張です。これも検証してみないとわからない。

S(気づいている意識)というのは要するにこの意識のキャンバスやスクリーンの実在を検証しようということです。今起きていることに気づいているのは間違いない?そう、間違いないと皆さん言えると思います。気づいていないならパソコン画面は見えません。

これが肉体の五感に起因するものではないのなら、五感も確かにあるけれど、「それ以外の意識」もあるなら。その意識というのは何者で、何ができるのか。どのような感覚なのか。実はその継続する意識の上で、個々人だと感じている私たちが「夢」を「見続けている」のだとしたら。

これは本当のところ方便だと思います。実際の真実というのは「ひとつ」であって「ふたつ以上ではない」ので、観測されるものと観測するものに分離されるならどちらかまたは両方幻影に過ぎません。

でもこの方便を使わないと、私たちがキャンバスを意識することはまずないわけです。

もう2ヶ月以上前、1月7日の記事で「気づきに気づく」方法は山頂ではなく、9合目へのルートと書きましたが、この方便が強力であることは間違いないのだと思います。

思考観察のどの段階においても、キャンバスを意識する、スクリーンを意識する、夢の土台を意識することになります。

今日はここまでにします。


今日も生かしていただいてありがとうございました。
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